マイケル・ジャクソン──『スリラー』が塗り替えた、ミュージックビデオと人種の壁
この記事でわかること
- 01.マイケル・ジャクソンは1958年、アメリカ・インディアナ州ゲーリー生まれで、兄弟グループ「ジャクソン5」のリードボーカルとして音楽キャリアを歩み始めた。
- 02.ソロ転向後の『Off the Wall』『Thriller』は、モータウン25周年でのムーンウォーク初披露などを経て音楽史に残る成功を収めた。
- 03.「We Are the World」やスーパーボウル出演など、音楽の枠を超えた社会的な影響力を持ち続けた存在でもあった。
ミュージックビデオという表現形式そのものを塗り替え、人種の壁までも打ち破った1本の映像がある。
マイケル・ジャクソンの「Thriller」だ。
ジャクソン5のリードボーカルから、史上最も成功したエンターテイナーの一人となるまでの歩みを振り返りたい。
ジャクソン5、8歳のリードボーカル
マイケル・ジョセフ・ジャクソンは1958年8月29日、アメリカ・インディアナ州ゲーリー生まれ。
父ジョセフ、母キャサリンのもとに生まれた9人兄弟の一人として育った。
1966年、父の勧めで兄弟グループ「ジャクソン5」が結成される。デビュー時のメンバーはジャッキー(15歳)、ティト(13歳)、ジャーメイン(12歳)、マーロン(9歳)、そして最年少ながらリードボーカルを務めたマイケル(8歳)だった。
1968年、地元ゲイリーのレーベル、スティールタウン・レコードから最初のシングル「ビッグ・ボーイ」をリリース。
ライブの前座で出会ったボビー・テイラーがジャクソン5の才能を見出し、モータウン・レコードとの契約へと導いた。
1969年10月、シングル「帰ってほしいの」でメジャーデビューし、全米チャート1位を獲得。
少年たちの愛らしい歌声と、モータウンのプロデューサー陣による秀逸な楽曲によって、一躍全米の人気者となった。
『Off the Wall』というソロとしての転機
1979年8月10日、マイケルはエピック・レコードへの移籍後初となるソロアルバム『Off the Wall』をリリースする。プロデュースを手がけたのはクインシー・ジョーンズ。
1978年公開の映画『ウィズ』での共演をきっかけに知り合った2人による、初めてのタッグだった。
ディスコ、ポップ、ファンク、R&B、ソフトロックを横断するこのアルバムは、モータウン時代からの脱却を印象づける大きな飛躍として評価され、世界で2000万枚以上を売り上げている。
収録曲「She’s Out of My Life」は、レコーディング中にマイケル自身が涙してしまうほど感情移入したバラードとして知られている。
モータウン25周年、伝説のムーンウォーク
1983年3月25日、モータウン創立25周年を記念したテレビ特番「Motown 25: Yesterday, Today, Forever」がカリフォルニア州パサデナ・シビック・オーディトリアムで収録された(同年5月16日、NBCにて放送、視聴率22.9%・視聴者3390万人)。
マイケルはジャクソン5の兄弟たちとともにモータウン時代のヒットメドレーを披露した後、ソロで『Thriller』からの新曲「ビリー・ジーン」を歌唱。この場で、後にマイケルの代名詞となる「ムーンウォーク」を公の場で初めて披露した。
このバックスライド歩行は、1980年にストリートダンサーのジェフリー・ダニエルから見せられたものだったが、マイケル自身が「ムーンウォーク」と名付けたことで、彼の代名詞として広く知られるようになった。
マイケルは、爪先立ちやスピンを含むダンスの多くをフレッド・アステアから影響を受けたと公言しており、晩年のアステアに自らムーンウォークを教えたこともあるという。
『Thriller』というモンスター・アルバム
1982年発表のソロアルバム『Thriller』は、「ビリー・ジーン」「今夜はビート・イット」「スリラー」といった世界的ヒットを収録し、史上最も売れたアルバムとしてその名を刻んだ。
しかし、この成功への道のりは平坦ではなかった。
『Thriller』以前、マイケルはアフリカ系アメリカ人であることを理由に、MTVでの露出に苦労していたと言われている。
所属レーベルCBSレコードからの働きかけによってMTVが「ビリー・ジーン」、続いて「今夜はビート・イット」の放映を始めたことが、マイケルとMTVとの長期的な関係の始まりとなり、他の黒人アーティストが認知を得るための道も切り拓くことになった。
1983年12月2日にMTVで世界初放映された「スリラー」のショートフィルムは、コメディ・ホラー映画の監督ジョン・ランディスと特殊メイクアーティストのリック・ベイカーが手がけた、約14分に及ぶ異例の長さの作品だった。
制作費は50万ドルから80万ドルとも言われている。
始まり・中盤・終わりという物語性を持ち、単なる宣伝映像ではなく一つの映像作品として昇華されたこの作品は、初めて映画用フィルムで撮影されたミュージックビデオ、初めてMTVでワールドプレミア放映されたミュージックビデオとなった。
後にアメリカ国立フィルム登録簿に登録され、アメリカ議会図書館で永久保存される、史上唯一のミュージックビデオともなっている。
「We Are the World」という連帯
1985年、マイケルはライオネル・リッチーとともに、エチオピア飢餓救済のためのチャリティーソング「We Are the World」を作詞作曲する。
プロデュースはクインシー・ジョーンズが手がけた。
イギリスのバンドエイドによる「Do They Know It’s Christmas?」(1984年)に触発され、活動家のハリー・ベラフォンテがアメリカ版のチャリティーソング制作を発案したことがきっかけだった。
完成した楽曲は物理メディアだけで2000万枚以上を売り上げ、史上8番目に売れたシングルとなっている。
レコーディングの際、クインシー・ジョーンズは集まった豪華アーティストたちに「あまりにも出来が良すぎると、誰かがラジオでかけ始めてしまうぞ」と冗談交じりに釘を刺したというエピソードも残っている。
『Bad』『Dangerous』へと続く革新
1987年発表の『Bad』では、同一アルバムから5曲もの全米1位ヒットを生み出すという、当時前例のない記録を打ち立てた。
同作のミュージックビデオは、名匠マーティン・スコセッシ監督にとって初のミュージックビデオ作品としても知られている。
1991年発表の『Dangerous』では、ニュー・ジャック・スウィングを取り入れた革新的なサウンドで、新たな時代を切り拓いた。
スーパーボウルが変わった日
1993年1月、マイケルはスーパーボウルのハーフタイムショーに出演した。
当時低迷していたハーフタイムショーの視聴率は、この出演によって大きく改善。
これ以降、著名なミュージシャンがハーフタイムショーに出演することが恒例となり、現在まで続くスーパーボウルの名物企画の礎を築くことになった。
2009年6月25日、マイケル・ジャクソンはこの世を去った。
ジャクソン5の少年時代から、ソロアーティストとしての絶頂期まで。
彼が塗り替えたミュージックビデオの表現と、人種の壁を越えた音楽シーンのあり方は、今なお色褪せることなく音楽史に刻まれている。